「チコちゃんに叱られる」を見ていたら、思いがけず素敵な言葉と出会ってしまいました。
その前に、「チコちゃんに叱られる」はかなり面白い。5歳児という設定のチコちゃんなんですが、めちゃくちゃ古いことを知っていたり突っ込みどころがつぼである。
毎週見ているわけではないんですが、時間があるときに見ています。
ある疑問をゲストに問い、その答えに「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と突っ込みながら正解が発表されるんですが、今回の疑問は「学校でウサギを飼うのは何で?」でした。
答えは、「ちょうどいいから」ということでした。
・あまり鳴かない
・あまりかまない
・昼間 おきない
という3つから、学校で飼うのにちょうど良いんだそう。
そしてこの「ちょうどいい」に対して、チコちゃんが「ちょうどいいという言葉をバカにしちゃだめなのよ。これは仏の言葉でもあるの。」と。
そのことばは、京都大原にある額縁庭園の有名な宝泉院に飾れらていると言います。
丁度よい
お前はお前で丁度よい
顔も身体も名前も姓も
お前にそれは丁度よい
貧も富も親も子も
息子の嫁もその孫も
それはお前に丁度よい
幸も不幸も喜びも
悲しみさえも丁度よい
歩いたお前の人生は
悪くもなければ良くもない
お前にとって丁度よい
地獄へ行こうと極楽へ行こうと
行ったところが丁度よい
卑下する要もない
上もなければ下もない
死ぬ月日さえ丁度よい
仏様と二人連れの人生
丁度よくないはずがない
南無阿弥陀仏
「丁度よい」という詩を書かれたのは、石川県の大谷派常讃寺坊守藤場美津路さんという方。
色々調べていたら、この詩は「自己否定の苦悩の中に聞こえた仏様の自愛の言葉です。安易な現状肯定ではありません」ということなんだそう。
ん。なんだか難しいぞ。
チコちゃんは、「全部ちょうどいいと思いなさいという教えなの」と言っていました。
が、本当は簡単な事ではなく、本来の自分のままで良い、無理しなくて良い、他人と比べない、あるがままを受け入れる、という事ではない。
「ちょうどいい」と思って楽になるという詩ではないんですね。
もちろんとらえ方は人それぞれなのですが、書いた本人はそうではなかったんでしょうね。
自己肯定からきた言葉ではなく、むしろ自己否定からきた言葉なんだと。
長年教員をしていたという藤場美津路さんは、自分は知識人と思い込み、お寺に嫁いだ後も様々なことを信じられず、自分を否定し葛藤と苦悩の日々だったんだそう。
そんな中ある人の説法を聞いて、高い所にいた自分が下に降りたいと思った時、聞こえたのが「丁度よい」という仏様の言葉だったんだそうです。
最初は、いや、ちょっと楽になれる言葉だわ。なんて思いましたが、実に深かった。
上に書いたものは宝泉院に飾られている文章ですが、本当は違うみたいです。
最後に「丁度よいのだと聞こえた時 憶念の信が生まれます」とあるみたいです。
ウサギは飼うのにちょうどいい。という話から「丁度よい」という詩に出会ったわけですが、苦悩の末にたどり着いたと思われるその境地は、未知であり、本当に理解できるようになるのは先になりそうです。
いつか京都の宝泉院に行って庭を眺めながら深く深~く考えたいと思います。