友人とのお酒の席で、「なぜお酒に強い人と弱い人がいるのか?」という疑問から、なぜか人類の誕生までさかのぼってしまい、たまたまNHK番組を録画していたことを思い出し、見だしたらめちゃくちゃ勉強になってちょっとワクワクしてしまった。
という流れから、3回目をまとめたいと思います。
というよりも、いつも番組を見ても「あれ何だったっけ?」となる自分のために記録したいと言うのもあります。
今回は第3回、最終回。アフリカから誕生した人類は、どのように日本へやってきたのか。という謎についてです。
ホモ・サピエンスがアフリカを出たのは
10万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスは、その土地に安定することがなかったんだそう。
そして8万年前から5万年前に本格的にアフリカを出たホモ・サピエンス。
しかし、最近見つかった化石では19万年前から17年前のものとされるホモ・サピエンスとされるであろう化石が見つかっていて、それが確実ならホモ・サピエンスがアフリカを出た時期が書き換えられるんだって。
色々見つかってきて、本当はこうだった!っていうのは面白い。ワクワクする。
アフリカを出たホモ・サピエンスが、最も到達が難しいとされるのが日本列島だったそうです。
そこを可能にしたのが、ホモ・サピエンスだけが持つ能力だった!というわけです。
う~ん(*´ω`*)気になります。
最初にアフリカを出たのはホモ・エレクトス
最初にアフリカを出たのは、ネアンデルタール人の祖先でもあるホモ・エレクトス。
北京原人、ジャワ原人と呼ばれているのも、主としてはエレクトス。エレクトスはヨーロッパをはじめ、日本のすぐ近くまで来ていたんだそうです。
結局エレクトスも、日本へ来ることができませんでした。極寒の大地と大海原に阻まれたからです。
アジアはヨーロッパにも負けない文化だった?
今からおよそ3万年前の東南アジアは、今よりも80メートルほど海水面が低く、スンダランドという巨大な陸地だったんだそうです。
最近そのエリアで相次いでホモ・サピエンスの遺骨が発見されていて、その中でも世界を驚かせたのがインドネシアのスラウェシュ島、ティンプセン洞窟で見つかった世界最古とされる壁画です。
今まで、ヨーロッパの遺跡から芸術的な壁画が発見されていて、ホモ・サピエンスはヨーロッパで芸術性や創造性を開花させたと信じられてきました。
つまり、ヨーロッパより先にすでにアジアやオーストラリアに到達していたかもしれないのです。
ティンプセン洞窟で見つかったのは、塗料を吹き付けて描いたと考えられる手形。猪の仲間。近くの洞窟には魚やイカを描いたものも発見されています。
最古のアジア人の文化は、ヨーロッパにも勝るとも劣らないものだったということが分かってきたと言います。
南からやってきた白保人
ホモ・サピエンスが日本へ来たルートは3つ。
・北海道ルート
・対馬ルート
・沖縄ルート
この中で一番難しいとされるのが沖縄ルート。
最近、石垣島で新しい空港を作ろうとしたら、南からやってきた人たちの19体分もの痕跡が見つかったんだそう。
そう言えば、ホンマでっか!TVで武田先生が「最近、南の方の人たちはインドの方から来たっていうのが分かってきた」って言ってたな。
発掘されたのは2万7千年前から2万年前のものとされていて、日本最古の全身骨格も出土し、この時代の骨格がこれほど見つかるのは世界でも珍しいんだそう。
人類学者の土肥直美博士はこう語っています。
「次に見つかるのは50年後か100年後かというすごい遺跡。いずれは教科書に載るかもしれないような遺跡であることは間違いないです」
骨をつなぎ合わせていくと、当時の彼らの暮らしが分かると言います。
耳の中の方に突起があり、これは「外耳道骨腫」と呼ばれるもので、サーファーや海女さんなど、頻繁に海に入る人に見られるんだそう。
白保人も海に親しんでいた。とのこと。
DNA鑑定を行ったところ、一部の人骨のルーツは南方の方、現在の東南アジアの人たちと近いことが判明されました。
ホモ・サピエンスはどのように海を渡ったのか?
日本に最も近かったのが、当時は大陸と陸続きだった台湾。
台湾の東部、チャンピンにある八仙洞遺跡には、石垣島の遺跡とほぼ同じ時代の石器が出土していて、ホモ・サピエンスは台湾から日本列島にわたってきたのではないか?と言われています。
しかし、台湾から一番近い与那国島までも100キロ以上。どのように渡ったのかという謎。
漂流して流れ着いた?
ホモ・サピエンスは日本列島に漂流して着いたと言う説もあるそうですが、その研究もしているんだとか。
GPSなどが搭載されている「漂流ブイ」と呼ばれるものを海に流すことで、潮の流れを観測、調査できるんだそうです。
潮の流れを観測した結果、何度やっても与那国島には到達しなかったんだそう。
それは、台湾と沖縄の間に黒潮が流れているからなんだって。
船で辿り着いた?
国立科学博物館の研究チームが、3万年前の航海を再現して海を渡る試みをしたそうです。
当時の出産率や死亡率を考え計算したところ、海を渡った先で子孫を残すには最低でも5組10人が必要であることが分かったそう。
10人が海を渡るには、船は一つではなく複数必要になるんだとか。
1、草の船
ヒメガマという植物を束ねイカダのような船を作り実験。
当時も使われていたかもしれない、貝を使ってヒメガマを切っていました。よく切れるんだって。草を集めるのに10人がかりで1週間もかかっていました。
ツルを使って草を束ねる人、石でたたいて隙間を無くす人、実験の中では船を下から足で支える人もいました。
大勢の人が分業して船を作っていた。つまり、前回ホモ・サピエンスが生き残ったのは集団だったから。という事と同様、ホモ・サピエンスはここでも協力をしていたんですね。
ヒメガマの船で行った実験は、与那国島から西表島まで。
結局、草の船では波に流されてしまい失敗。
研究員さんはこう語っています。
「昔の人はどうやってきたのか いったていう証拠が残ってて、じゃあ行けるわけじゃないですか。誰かができたことができないのは悔しい」
う~ん。すごい実験ですね。ロマンだわ。こういう風に実験するのを「実験考古学」って言うそうです。
2、竹の船
竹の船作りでは、3万年前と同じように石を割って石器を作り、それで竹を割るところから始めていました。
竹の船は浮くんですが、ここでもやはり海流に流されてしまい失敗。
3、木の船
オーストラリアのマジェベベ遺跡で、石で作られた世界最古の斧が発掘されています。
柄を取り付けて跡がくっきり残っていて、柄を付けることで打撃力が10倍にもなるんだって。
これは木材の加工に使われていたんじゃないか?とされています。木を切り抜いて丸木船を作ることができたのではないか?
それは、遺跡からカツオやキハダマグロなどの骨が見つかっていることから、これらの魚は陸地から釣るのは難しくすでに船を使っていたのではないか?とも考えられるそう。
実験では、本当に石の斧で木を切り出せるのか?というのもされていました。
人が乗るためには直径1メートルほどの木を切らなくてはならないんだそう。6日かかってました。
そして、出来上がった丸木船を試したところ、水の抵抗が少なく推進力が大きいことが分かったんです。
来年、台湾から与那国島への航海を予定しているそう。
楽しみですね!「まだ分かってないんか~い!」ってちょっとだけ思っちゃったけど、もしかしたらその謎が解けるのかもしれない。
そう思うとワクワクします。
スタジオで
高橋一生さんがこんなことを言っていました。
「海を渡るって言うことって相当リスキーだなって思うんですけどぉ」
それに対し、国立科学博物館の海部さんはこう答えています。
「もちろん色んな原因があったかもしれませんよね。例えば追いだされたとかね。仕方なく行ったっていう事もあったかもしれませんが、それでは世界中にこうやって次々に海を越えて行った人たちの説明にならないんじゃないかっていう気がします。
そもそも、小さな島に行く必要がないわけですよ、本当は。ですがそれをあえて行くっていうのは、新しいところに興味があるんでしょうね。やっぱり好奇心があるのかなぁと思いますね」
海部さんはこんなことも言っていました。
「台湾から見ると与那国島って太陽が昇る方向なんですね。まさかの太陽の島。かと」
なるほど~。もしかしたら太陽を探しに行ったのかもしれませんよね。そう思うとロマンチックだわ。
北から来たホモ・サピエンス
一方、北から来たホモ・サピエンスは、どのように極寒を乗り越えたのか?という謎。
北海道の千歳に、シベリアから渡ってきたと考えられる証拠が見つかっています。
発見されたのはおよそ2万5千年前のカミソリのような「細石刃」と呼ばれる石器。動物の骨に彫った溝に並べて取り付けて使ったと考えられているそう。
細石刃はシベリアの遺跡でも見つかっていて、2万5千年前までにシベリアを踏破し北海道に渡ってきた人たちがいたと考えられるんです。
当時、北海道は大陸と陸続きだったそう。しかし、零下50℃にもなる土地で3万年前の人たちはどのように暮らしていたのでしょうか。
アフリカで誕生した人類は実は寒さに弱く、ネアンデルタール人などは寒さに対応していたもののこれほどの極寒の地には進出できなかったんだそうです。
極寒の地へ渡ったのは食料
当時、北の大地にはマンモスやバイソン、トナカイ、ウマなどの獲物となる大型動物が生息していたんだそう。しかも、競争する他の人類がいなかった。
マンモスを狩るとかって言うと、思い出してしまうのは「はじめ人間ギャートルズ」の輪切りの肉。
いや、ちゃんと見たことはないけど、子どもの頃は昔なつかしアニメってたくさんやってたんですよね。骨付き肉は印象的でした。
食べ物には困らなかったが、どのように寒さをしのいだんでしょうか。
ホモ・サピエンスは毛皮を着ていた!?
最近、3万2千年前にホモ・サピエンスが暮らしていたと言う遺跡が、ロシアの「世界で一番寒い国」で有名なサワ共和国で見つかったんだそうです。
現在でも夏のわずかな期間だけ発掘が行われているそう。マンモスやバッファローの骨が見つかっていて、同時に10万点もの石器やアクセサリーも見つかっています。
その中に、動物の骨に保管されていたマンモスの骨などで作られた103本の縫い針が発見されました。これだけ古い針が一度に出土したのは、世界で初めてなんだって。
発見者のピトゥルコ博士はこう語っています。
「縫い針という発明があって初めて、ホモ・サピエンスは極寒の地へと進出できるようになったのです」
つまり、ホモ・サピエンスは縫い針によって防寒着を作っていたんです。毛皮をしっかりと合わせることで体温を逃さないようにできる。ということなんです。
他の人類にはできなかった技術
一見シンプルに見える縫い針は、作るのはかなり大変で、他の人類にはできなかったんだそう。
1、動物の骨に溝を掘る
2、細いかけらを割り出す
3、削って形を整える
4、糸を通す穴をあける
1本の縫い針を作るのには、完成を思い描き工程を順序だてる必要があるそうで、工程の多い道具作りはホモ・サピエンスにしかできなかったと考えられているんだそうです。
沖縄では縫い針は発見されていないそうですが、世界最古とされる釣り針が発見されています。
道具作りは言葉にも影響していた!?
脳の活動を測定できる装置を使い、疑似的に石器作りを体験するために被験者に石器を作る映像を見せる。すると、脳のブローカ野と呼ばれる言葉を司る領域が活性化するんだそう。
アメリカ、エモリー大学のスタウト博士はこう語っています。
「ほとんどの人が道具作りと言語は全く別の(脳の)活動領域を使っていると考えているはずです。しかし実は、目標に向かって順序だてて考えるという点でこの2つは似た構造を持っているのです。
つまり、道具作りと言語はともに進化してきたと考えられるのです」
道具を作るために手順を並べることと、伝えるために言葉を順序だてて並べることが脳の使い方として同じであるとのこと。
複雑な言語を持ったサピエンスは、複雑な道具を作ることができたというわけですね。
前回の、ネアンデルタール人が絶滅してサピエンスが生き残ったのは道具作りだったと言っていましたね。
道具を作ることによって脳が活性化、脳が活性化することによってさらに細かい道具を作れるようになっていったと。
0から1
斧と針の2大発明により、その後世界各地へ広がって行ったホモ・サピエンス。人類は基本的に道具に依存する生き物なんだそう。
スタジオでアナウンサーの方が言っていたのはこんなこと。
「斧を生み出した当時のサピエンスより、自動車や飛行機、ロケットを生み出した今の私たちの方が、よりレベルが高いんじゃないかって単純に思ってしまいそうですけど」
それに対して海部さんんはこう答えています。
「ロケットを開発した人たちは、その一歩手前まで教わっているわけですね。それは長い歴史の間でどんどん積み重なってきたもので、階段を一歩一歩上ってきたもので今があるんだと思いますね」
1から10にしてきた私たちの前に、0から1にした祖先がいたんですね。
実は0から1にすることが一番難しい。とよく言われます。
それが地球にとっても人類にとっても良いことか悪いことかは別として、何もないところから何かを生み出すと言うのはとてつもなく尊いことなのではないでしょうか。
※「NHKスペシャル 人類誕生 大逆転!奇跡の人類史」をもとに記載しています。
本の中では、ホモ・サピエンスはどのようにオーストラリアまでたどり着いたのか?なぜ、わすが1000年ほどで南米大陸の南端まで行けたのか?
そんな世界に広がるホモ・サピエンスのことも書かれています。
また、縄文人と弥生人の違いについても書かれていて非常に興味深いです。
いつかまた、日本での進化についてやってほしい。
ちなみに、人類が他の動物をめっちゃ絶滅させていたことも書かれていた。それはかなり衝撃でした。
そう思うと、人類の進化や道具の発明は幸なのか不幸なのか考えてしまいます。