連続ドラマ小説「半分、青い」。毎週楽しみに見ていました。
毎週というのは、毎朝録画して週に1度一気に見てたからです。
なんなら、最初2ヶ月は録画していたのに放置してました。春あたりはテレビを見る気力がなかった。で、見だしたらはまってしまったわけです。
そんな「半分、青い」は、実は名言が多くて見ていても心にぐっとくる回も多数。秋風先生はやばかった。
毎回ではないので書かなかったんですが、最後の3話が録画したHDDから消去できません。
「半分、青い」154話
154話はこう始まります。
君がいなくなって、私の世界は半分になった。
まだ子どもの頃、片側だけの聴力を無くした事よりも、何千倍もショックだ。
もう、きみの見ることのないこの世界。
優子が死んだ。
親友でありライバルでもあった優子が震災で亡くなったと聞かされたスズメです。
震災に関してはかなり賛否両論があるようですが、私はTwitterもあまり見ないので全然知りませんでした。最近知った(*_*;
主人公のスズメが岐阜に帰っていて、両親やブッチャーたちが励ますが中々元気が出ない。
母の肩に顔を置き、なぜかカラスが嫌いと話し出す。
そして、「優子の名前、誰がつけたんかな。やっぱりお母さんかな」と涙を流す。
カラスの下りは何だったんだ?と思いながら、優子が生まれたときのことなど考えたんだろうか。と思ったら泣いてしまいました。
名前を付けるという事は、そこに何かが生まれたという事。いや、生まれたからつけるもの。
「名前をつける」ということに、何か意味があったんだろうか?と少し深読みです。
すずめが生まれた時もその名前を決めるのに時間がかかっていたし、すずめのおじいちゃんである仙吉さんは孫の名前も犬の名前さえ付けさせてもらえずだったが、最後に2号店の名前を付けていた。
最終回ではスズメと律が作っている「そよ風ファン」を、スズメの提案で「マザー」という名前に変えていた。
どんなものでもどんな形でも、何かが生まれること。いつか終わること。それはモノであっても人であっても。
ふと、「先生のカバン」で、かすかにしか動かないモーターに対し「ほそぼそと生きている」と言っていたのを思い出しました。
もちろんモーターにもそれを動かしている電池にも名前はついていませんでしたが、生きているという感覚。
優子と名付けた母親がいたと想像したら、そこには愛があって、慈しみがあって、優しさがあった。スズメのセリフにそんな想像をしてしまったのです。
律の家にて
シーンは変わり、スズメは律の家で律のお父さんである弥一おじさんときみこ先生と話しています。
スズメ:でも、おじさんはえらいね。強いね。和子おばさんのこと乗り越えて、こうしてちゃんと生きてる。
弥一:そう思っとった。やいちおじさんもそう思っとった。ほやけど、そんなことなかった。
これが、いつまでたっても悲しい。最近分かった。悲しみを乗り越えたわけではなく、悲しみとともに生きている。
忘れられん。いつだって涙が出る。
ほやけど、生きとると時は進む。良いことだってある。翼が入賞したぁなんて話を聞けばうれしい。きみか先生の赤いスポーツカーに乗ったら、これがものすごい気持ちが良い。
すずめちゃん、おじさん思うんだ。死んでしまった人たちがいなくなった訳やない。ここにおる。
きみか先生:ほやな~。ここにおる。
すずめちゃん、きみか先生も思う。私らは生と死のはざまに生きている。そして死ぬ。今は生きている。それだけ。
生まれることも死ぬことも、特別な事やないやないかって。生まれることがめでたくて、死ぬ事が悲しいてのは、乱暴のような気さえするんや。
このことですずめは優子に会いに行きます。
154話は、優子の骨箱を抱きしめてすずめが涙を流すシーンで終わります。
死生観は人それぞれですが、このセリフは脚本家北川悦吏子さんのそれなのではないでしょうか。
最近は年齢のせいもあるのか、若いころよりもこういった死生観が何となく理解できるようになりました。
落語の演目で「死」を取り扱ったものが多いというのを聞いたときもそうでした。
ああ、落語の中の話も死生観なのか。と。死というのは遠いものではなく身近なもので、そういった場面に出くわす機会が少なくなってきている現代人は何か尊いものに思ってしまいがちですが、当たり前のことなんだ。と。
「半分、青い」は生と死の話だったのか?
ああ、そうか。この話は、生と死についてのドラマだったのかもしれない。そして、様々な人の様々な人生観と死生観の話だったのかもしれない。
はじめにスズメが生まれますが、その後にスズメのおばあちゃんであるれん子さんはすぐにピンピンコロリと逝ってしまう。
仙吉さんも亡くなる。和子さんも病気で亡くなる。なんなら映画監督である祥平はベランダから身を投げる回もある。ハルさんはがんになった。そして最後に優子が亡くなる。
スズメには子供も生まれる。律にも子供ができる。スズメの弟である草太にも子供がいる。スズメは漫画を生み出すことに熱心だった。スパロウリズムがあるシェアオフィスは、皆が何かを生む出す場所だった。
生まれるという事となくなるということの狭間で、その狭間には人それぞれ苦しみや悲しみもあるということなのか?と考えてしまいました。
「半分、青い」155話
スパロウリズムに秋風先生から速達が届きます。
短い手紙を書きます。
人生は希望と絶望の繰り返しです。
私なんか、そんなひどい人生でも、大した人生でもないのに、そう思います。
でも、人には想像力があります。
夢見る力があります。
生きる力があります。
明日を、これからを、どんなにひどい今日からだって、
夢見ることはできます。
希望を持つのは、その人の自由です。
もう、ダメだと思うか、
いや、いける。先はきっと明るいと思うかは、その人次第です。
律くんとスズメには、その強さがあると、信じています。
秋風 羽織
頑張れとは言わない。ただ励ますでもない。たまらない言い回しである。たまらない距離感である。
そして、この言葉に私自身勇気づけられました。
この手紙は、昔同じ大学だった正人と律が一緒に読んでいますが、正人が「スズメちゃんを一人にして大丈夫?」と、律に聞きます。
優子ちゃんとスズメの関係は二人のものだから、と、律。
多分だけど、優子ちゃんにとって、ただの親友じゃない。特別な存在だったと思うんだ。だから俺はここにいる
正人:律は今までも、遠くにいたり近くにいたりしながらスズメちゃんを守ったんだな。
律:俺が生まれた意味はそれだって、あいつを守るためだって。
私はこのドラマの、この距離感が好きでした。
自分が守りたいって思っても相手は必ずしも守られたいって思ってないかもしれない。なんなら私は守られたいと思わない。
守るにも色々ありますが、そばにいることだけがその人を守ることじゃない。
助けることが守ることではない。優しくすることが守ることでもない。
そういう思いの私の中で、律の距離感は心地よかったな。他の人たちの距離感も好きだったかも。100均の店長とか、ひとりメーカーのけいこさんとか。秋風先生のところで働いている菱本さんの距離感も良かった。
だからこそ、秋風先生の手紙もたまらなくなってしまうんです。あの距離感。
優子の家で
旦那さんが震災の日について話し出します。
病院で働く優子は患者さんを上に上げたが、寝たきりの人や集中治療室にいて動かせない人たちに寄り添ったという。
そして、優子の携帯に録音した音声が残されていた。
えっと、優子です。
あんまり暗くなりたくないな~。言いたい事、言います。
くうちゃん、ママがいなくなっても、しっかり生きるんだよ。ぜったい。きみは大丈夫だからね。
ようじさん、ごめんなさい。私、患者さんを置いていくこと、できません。くうちゃんをよろしく。今までありがとう。
ボクテ、ちゃんと漫画描きなよ。私たちの中で、唯一の生き残り、売れっ子、頑張れ。
すずめ、すずめ生きろ。最後に暑苦しいこと言って申し訳ないが、私の分まで生きてくれ。そして、何かを成し遂げてくれ。それが、私の夢だ。生きろ。すずめ。
この音声を聞いたスズメはスパロウリズムに帰ってきて、律の前で「私は生きる。優子の夢をかなえる」というシーンで155話は終わります。
「生きろ!」とはもののけ姫か!?
いや、もしかしたら「生きろ!」というメッセージ性の強いドラマだったのかもしれない。
スズメは子供の頃に難聴になり片方の耳が聞こえないが、それは個性だった。ボクテも個性だった。
最後の方にスズメの子供かんちゃんが学校でいじめられてしまいますが、転校することになります。これも「個」を守り生きろ。ということなのでは?と深読み。
ああ、秋風先生の名言をもっとメモっておくんだったな(*´Д`)
総集編で見たいと思います。
10月8日
前編:13:30~14:58
後編:15:05~16:33