何となく北原白秋の詩集をパラッとめくって気づいたことがありました。
「あ、これ火垂るの墓でせっちゃんがうたってたやつじゃん!?」
北原白秋の「あわて床屋」という詩なんですが、火垂るの墓のシーンが浮かんで「ああ、この詩だったのか」となりました。
そんなあわて床屋は、実は北原白秋のブラックユーモアだったのかもしれません。
あわて床屋
春は早うから川辺の葦(あし)に、蟹が店だし、床屋でござる。
チョッキン、チョッキン、チョッキンナ。小蟹(こがに)ぶつぶつ石鹸(しゃぼん)を溶かし、親爺自慢で鋏を鳴らす。
チョッキン、チョッキン、チョッキンナ。そこへ兎がお客にござる。どうぞ急いで髪刈っておくれ。
チョッキン、チョッキン、チョッキンナ。兎ァ気がせく、蟹ァ慌てるし、早く早くと客ァ詰め込むし。
チョッキン、チョッキン、チョッキンナ。邪魔なお耳はぴょこぴょこするし、そこで慌ててチョンと切りおとす。
チョッキン、チョッキン、チョッキンナ。兎ァ怒るし、蟹ァ耻(はじ)ょかくし、為方なくなく穴へと逃げる。
チョッキン、チョッキン、チョッキンナ。為方なくなく穴へと逃げる。
チョッキン、チョッキン、チョッキンナ。
この「チョッキン、チョッキン、チョッキンナ」というのが火垂るの墓でせっちゃんがうたってたところです。
節子が清田さんと海に行ったときにカニを見つけて、ダブルチョキで横に揺れながら「チョッキン、チョッキン、チョッキンナ」と言いながらカニと一緒になって歩いて行くシーン。
火垂るの墓の中では少しほのぼのとしたシーンなのかと思いきや、カニを追いかけた先に藁のようなものをかけられて横たわる人。その下にのぞく黒い足。
「泳いだらお腹減るやん」という言葉が響くシーンです。その後の母親との回想シーン。
「チョッキン、チョッキン、チョッキンナ」から思い出してしまった火垂るの墓は切なくて、ちょっと苦しくなってしまいました。
火垂るの墓を思い出してしまうと切なくなったり苦しくなったりしてしまいますが、あわて床屋は北原白秋のブラックユーモアにあふれる詩だったのかも。
「あわて床屋」はブラックユーモアだったのかも
北原白秋の詩集はたくさん出ていると思いますが、私が読んだ詩集は上田信道さんという児童文学などを研究している方が共編した詩集でした。
解説もあるのでおもしろく拝見させていただきましたが、そこには「こんなエピソードがある」と書かれていました。
小田原時代の白秋が、なじみの床屋で少しばかりカミソリで耳たぶを傷つけられた。しばらくして、白秋が床屋にやってくると、店主にこの童謡を差し出して見せたというのだ。
ブラック。というと語弊があるのかもしれませんが・・・、いや、ブラックだろう!!
耳を傷つけられたからこの詩ができたのか元々この詩があったのかは書かれていませんが、私が床屋だったら「あの人ブラックだわ!」となります。
他人事だからこそ面白いエピソードである。に違いない。
北原白秋はナンセンス?
この詩集の中で上田さんはこんなことも書いています。
ウサギの耳を切るのは残酷だ、という理由からこの童謡をきらう人がごくまれにある。童謡に限らず、日本の子どもむけの文学を読むおとなたちは、ナンセンスやユーモアを容易に受け入れようとしない妙な《きまじめさ》があるようだ。
確かにそうかもしれないです(*´ω`*)。私はそうだ。
ユーモアを好むのに、ときにまじめにその内容を考え込んでしまうことはあります。
北原白秋の詩は「言葉遊び」。そこに意味はなくても良いのかもしれません。ナンセンスで良いのかも。
子どもの頃は、意味が分からないけどリズムが良いものを口ずさみませんでした?寿限無とかもそうですよね。
おどるポンポコリンとかね。リズムが良くて歌っちゃいますよね。エジソンはえらいのにお腹が減っちゃうんですよ!
私が好きなのはやはりリズムです。北原白秋の詩はとにかくリズムが良い。
意味はないかもしれないけど(多少あるんでしょうが)、意味を考えないでも口にするとちょっとテンションが上がる。
そんなのが心地いい。
あれ?そう言えば、宮沢賢治もそうかもな。どっどどどどうど。
そう思ったら宮沢賢治も読みたくなってしまった。
今年の夏休みは純文学に浸ろうかな。と思わせる詩集でした。