心にぐっとくるTV番組

SWITCH【井浦新×服部文祥】の服部さんにゾクゾクする。生きるって何だろう

心にぐっとくるTV番組

もう、1ヶ月近く前になるのに、例のごとく録画していた番組を放置してしまっていましたがやっと見ました。

それがNHKでやっていた【SWITCH(スウィッチ)井浦新×服部文祥】。

テレビ欄に「服部文祥」の名前があったので録画してしまいましたが、見始めたらゾクゾクして何度も何度も見てしまった。

井浦新さんも好きだけど、なんなら顔とか超好きだけど、対談中の質問も良いところついてくるわ。という具合にさらに好きになったけど、今回は服部文祥さん。

私が服部文祥さんを知ったのは「情熱大陸」でした。

ちょうど山ガールなんぞが流行っている真っただ中で、その番組を見てしまった山にはまりつつあった私は、似非山ガールをやめないといけないのでは。。。と思った瞬間でした。

あとクレイジージャーニー。「いやぁ、本当にクレイジーなのは服部文祥でしょ!」と思ってたら、本当にクレイジージャーニーに出ていた。

で、情熱大陸で見た服部さんは、もっと力強い何かを感じましたが、今回の「SWITCH」を見て思ったのは、服部さん丸くなっている・・・。でした。

それは悪いというわけではありません。

クレイジーさに変わりはないけど、私はだいぶ大人になったな。と思う気持ちでした。

そんな服部文祥さんを久しぶりに見ましたが、生きることや命のこと、年齢とともに考えてしまう、そう言った類のものを「あぁ、そうか。」と納得させてくれるものでした。

服部文祥【サバイバル登山】

「山に対してフェアでありたい」という考えから、「サバイバル登山」と自ら名付けた登山を実践する。サバイバル登山とは、食料を現地調達し、装備を極力廃したスタイルの登山を指している。

Wikipediaより引用

サバイバル登山とは、登山においてただ山頂を目指すのではなく、現地で食材を調達し道なき道を進むというスタイル。

番組内では服部文祥さんを世に広めたという一冊のが紹介されていました。

36歳の時に発表した山岳ノンフィクション「サバイバル登山家

その中の一説も紹介されていました。

「こりゃ、死ぬかもしれないな」と本気で考えた。
~中略~
僕は一人の登山者からデクノの坊への坂道を転がり始めていた。

また、こうも書いてあります。

生命体としてなまなましく生きたい。
~中略~
そのために僕は山登りを続けててきた。

そして、ある方法に辿りついた。
食料も装備もできるだけ持たずに 道のない山を歩いてみるのだ。

私は山にも登ることもあるけれども、人間の作った道のない山に入ったことはありません。

「あれ、ここ道なくない?」と思ったことはありますが、道のはじの木々に赤いリボンがついていて、道なんだと分かるような場所はありますが。

だからこそ、山の中で生々しく生きるという体験をしたことがありません。

というか、普通あんまりないわな。

だからこそ魅力に感じてみてしまうのかも。

山に入ること

番組を見ている私は、多少はしおった部分もありますが、後で自分で読んでも納得できるように文字に起こしました。(ほぼ自分用)

井浦新さんは「サバイバル」と「登山」という、好きなワードが2つつながっているとおっしゃっていました。

どういう風に登山をされているのか、どんなふうに生活をされているのか、どんなふうに生きているのか。

正直どんな方なのかすごい知りたい。と。

井浦さん:まず、そもそもなんですが、サバイバル登山とは? 人間が山に入って行った人間の原点、最初のあるべき入り方というか、関わり方。

服部さん:昔はみんなこのスタイルだったからね。持てる物は持って行くんだけど、限界があるから山で調達する。
登山っていうのは、そもそも、一番最初は誰も登ったことのない、地理的なかたまり、山みたいなものに、あそこに行ってみたいという思いから人間が始めた。本来的に言うと、登山道がない原始的な環境を、なんとか自分の肉体で登り、自分で自分の肉体を下ろしてくるっていうのが登山なんで、本来の登山っていうのは、日本でできる本来の登山のひとつの形っていうのは、僕はこれだと、サバイバル登山そのものが本当の登山だと。

 

「自分の肉体で登り、自分で自分の肉体を下ろしてくるっていうのが登山」

まぁ、当たり前のことかもしれませんが、そういう風に思うっていうのが大事だな。と思います。

そういう感覚を持てるようになると、自分の体の大切さとか尊さとかを感じるようになる。

でね、電車の中で考えてみたわけです。

「自分の肉体で会社に行き、自分で自分の肉体を会社から持って帰ってくる」

あぁ、自分のこと大切にしちゃうかも。となった。でも、自然の中で感じるのとはやっぱりちょっと違うんだろうな。

登山も釣りもするという井浦さんに、「まぁ、一番重要なのは結局体力なんだけどね」と自分の釣り竿を見せる服部さん。

服部さん:イメージ通り釣れるようになれば面白くて辞められなくて、それこそ2週間山にこもっちゃうけど。

井浦さん:これだけ対峙してたら、何か、通じた瞬間ってあるんじゃないですか?

服部さん:魚がデカければ、ギンって一瞬止まるんですよね。その瞬間っていうのが、まさに時間が止まるような感じ。
出会いと、時間と、存在に関する、なんかゴチャゴチャした考えがドッと押し寄せてきて、すごい不思議な感覚がしますね。
「あ、自分が生きてるんだな」ってやっぱ思うから、それはもう、他に例えようがない・・・。
自分は生き物だから、生き物を食べることでしか生きていけない存在で。っていうのが、そういう何か、命と食にまつわる悲喜こもごもみたいなものがゴカァンと来るから。
ダイレクトに「生きよう」とか「生きたい」とか思うことってあんまりないからね。「食べ物とは何か」もほとんど考えないし、それはそれで、そういう社会を作ってきたわけだからいいと思うんだけど、でもやっぱ、時々考えてみるのも、またそれはそれでいい。とは思いますけどね。

 

そう。「「生きよう」とか「生きたい」とか思うことはあまりない。

現代社会で生きていると、食べるという事に執着することはあまりないように感じます。数分も歩けばスーパーやコンビニもある。口にできるものがすぐ手に入る。

さっき、鶴瓶さんの「チマタの噺」を見ていたらゲストが東出昌大さんで、東出さんは猪をさばいたことがあるんだそう。

で、「命って何だ」「普段食べる食べ物って何だ」ってすごく衝撃を受けたんだそうです。

やっぱ、そういう体験は必要なのかな。と思いました。

「昔はおじいちゃんが普通に鶏をさばいていたから私は平気だけど、慣れじゃない?」って言ってた友人のことを思い出しました。

そうか、慣れかもしれないし、でも日常でそこにあるかないかで見方は変わるよな。

でね。そこで鶴瓶さんは、「丁寧に生きること」。おはようございますとか毎日のあいさつの連続、当たり前のことをすることが生きること。と言っていました。

ふむ。なるほど。

それはすごく大切だよな~。と。最近思います。忙しいとね、雑に過ごしちゃうんですよね。

考えること

服部さんは行った場所の地図に色々と書き込んでいますが、基本的には何を食べたかなんだそう。

カエル、アオダイショウ、イワナなど。その時に食べたものを書いておくとだいたい思い出すからというものでした。

井浦さん:自分を分析する時間でもあるんですか?山に入っている時間というのは

服部さん:俺だけかもしれないけど、世界、自分以外の時空間と自分との境界線に関して、すごく考えさせられる。
ここなんだよね。皮膚。
皮膚の外は自分以外。皮膚の中は自分。
その肉体的な事を考えたときに、その先に、その奥、「一体何でこんなことしてんだ?」っていう問いが、必ず来る。だって怖いし、まぁ、おもしろいのもあるんだけど、結局その答えが分からず帰ってくる。感じるだけ。まぁ、なんとなく感じるだけ。
まぁ、その答えは無いんだろうなぁ。わからない。
おそらくそこにいなかったら考えもしないんだよね。まぁ、俺は考えるのがおもしろいから、あぁ、こういう事を考える状況になっただけでもいいや。っていう肯定感が山にはあるのかな。

 

あぁ、そうか。と納得しました。

皮膚の外は自分以外という風に考えたことはないですが、服部さんが登るような山と私が登る山は全然違いますが、山道を歩いてると、苦しくて辛くて息もあがってハァハァ言ってて「何してるんだろう・・・。」って思うことがあります。

それは、おそらく服部さんの「何でこんなことしてんだ?」とは少し異なるかもしれませんが、やっぱり辛いとか苦しいとかも肉体からくることで、何してんだ?に対して答えはないんだな。

自分で答えを見つけに行っちゃうときはありますが。

この景色を見るため。とか。きれいな空気吸うため。とか。

だから「そういう状況になっただけいいや」って思うだけでも良いんだって思わされました。

普段の生活の中でも、考えて考えて答えが出なくて、でもそうやって考えられただけでもいいやって思えるとすごく楽になるかもしれないとも思いました。

生きるって何だろう

井浦さん:それこそ生き死にの中に自分の身を置いたときに、生きることって、やっと実感できる感じ

服部さん:まぁ、生きるために死に近ずくっていうのは、やっぱその、不思議な矛盾をはらんでて、それはなかなか肯定しにくい。それが魅力だといつか滅んじゃうんで・・・。
けっこうリスキーな登山を選んできてる人たちっていうのは、みんなソコ悩んでることなんで。

井浦さん:怖さは感じるんですか?

服部さん:怖い。常に怖い。ただその恐怖っていうのは、マイナスだけではないと思う。やっぱ恐怖がないと死んじゃうから。恐怖っていうのは自分を守るもの。それをだから、逆に手玉に取るわけじゃないけど、おもしろがる。「あぁ、なんで怖いんだろう」「どうして怖いと思ってるんだろう」みたいなことを。
ただそれも、やっぱり、それは肉体的な消滅が怖いだけで、「本当の怖さ」とは何のかっていうのは、まぁ、けっこう永遠の命題なのかなぁ。

 

話の内容とは少し異なるんですが、最近少し思うところがあります。

私は秘境が好きなので、そういうところを旅行で選ぶときにはけっこう危ない地域とかもあるんですが、どういう風に自分を守るかっていうのはけっこう考えます。

で、やっぱりそういう場所に行くときには「怖い」っていうのはあります。

私の場合「怖い」よりも好奇心とか興味とかが勝っちゃいますが、やっぱり守ることって大切だとすごく思うんです。

「守る」って一言で言っても様々なんですが、夜は出歩かないとか、人のいない路地には入らないとか、お金は小分けにするとか、そういう当たり前のことからその他もろもろ。

これって少し「生きる」ってことにつながるんじゃないかな。って思うんです。

で、自分を守るっていう行為は経験値も必要なのかもな。って思うこともある。

そういう風に思ってた私は、「肉体的な消滅が怖いだけで・・・」って言った服部さんの言葉は深かった。

レベルが違い過ぎて気持ちが追い付かない。

K2

26歳の時にK2を制覇した服部さんは、その経験を経て、より自分らしい登山を模索したという。

井浦さん:K2の頂き、景色を見た前と後って、何か変わって行くものがしたんですか?自分や、その、周りだったりとか。

服部さん:うん。K2の登山は、けっこう複雑な、本当に複雑な感情がある、、、。
まず、自分の登山じゃない。隊長が企画してそれに乗った登山で、まぁ、兵隊の一人だったんですよ。それでも、やっぱ若い頃はいっぱしの登山家になりたいと思って、そのいっぱしの登山家の答えの一つが、ヒマラヤの高峰に登るっていうことだと思い込んでたから、それがぁまず達成できたという喜び。で、日本人って海外モノに弱いんですよね。まぁ僕も弱いから、憧れていたし、周りもK2に登っているとなると、それだけで一目置くようになる。
そういう世界で生きやすい。日本の登山界で印籠のようなものを手に入れる。水戸黄門のように印籠のようなものを手に入れたっていうこともあるし、自分の中でも何か一つなし得た。
ただ、こんなこと言うとまた偉そうかも知んないけど、社会の評価が違ったんじゃないかなと思う。
K2登ってて、一方日本でヘビとカエル食ってるっていう。その「K2登ってて」っていうのは、こんなこと言うとすごくいやらしいけど、でもやっぱ現実として、あるんじゃないかなっていう。それは、本当にいい意味で、俺を救ってくれたかなぁ。個人的にも「まぁ俺K2登ってるから」っていうところに頼ることもできた。
だから、かなり礎としては、不本意とは言わないけど、不本意でない部分もあるけど、けっこう重要な礎になっちゃってるかなぁ。っていう

 

山岳の世界も社会の中で生きている私たちと同じように、周りの評価とか自分の意識とか似てるのかな。というか、人間はそういう生き物なのかもしれない。

でも、自由に見えて「頼れた」とか「社会の評価」とか自然に言ってしまう服部さんは、人間らしいなって思いました。

山の中で生死について考えている服部さんと、社会の中で働いている私は、どちらが人間らしいかは答えの出ない疑問であるが。

こだわり

普段の生活でも「衣・食・住」をできるだけ自分の力で作りだしている服部さん。

家のウッドデッキも本人の手作り。自宅の庭では鶏を飼い家庭菜園もある。

自給自足を可能にする工夫やエアコンなどの電化製品を極力置かないなど、サバイバル登山から生まれたこだわり。

井浦さん:文明の、まぁ言ってみれば電気、利器を、持ち込みたくないっていう、文祥さんの一番のこだわりって、思いって、どこから来るものなんですか?

服部さん:面白くないから、自分の力でやりたいから。あと、思考停止。その思考停止が、俺の中では非常に醜い。まぁもちろん電気製品たくさん使ってるし、冷蔵庫もあるわけだけど、なんか、もっと、もっと自分でできるんじゃないかな。で、自力で山に登ってサバイバル登山をやってみたら、本当に色んな事を感じて考えた。そのうちの最もその、大きな体験というか、衝撃な体験はやっぱり〇しだったんだけど、狩猟をやったら肉は食い切れないから、自分の家に持って帰ってきて、生活に入ってくる。その中で、その雑肉を処理するのに鶏を導入する。とか。
根本的なところは、山で自分でやったら面白かったんだから、自分の生活も自分でやったら面白いに決まってる。と思って、できることからチョコチョコチョコチョコやってったら、実際にそれは、すごい面白い。面白いことばっかり。

井浦さん:それが、サバイバル登山を都市生活に持ってきた場合のぉ・・・。

服部さん:まぁ、全部は全然できてないし、できることからやってるわけだけど、単に考えてなかったんだなって、色んな事に気付かされて。
こんなの(テーブル)一個作るだけでもすごい色々考えるんだよね。「どうすべぇかなぁ」とか。どうやってこれを表に釘を出さないで、板を一個板状に貼るかなとか。まぁ裏から打つだけなんだけど、裏から打ってちょうど出ないようなビスを選んでとか、その程度のことなんだけど、そういうのも考えて、「あ、こういう風にやってみよう」と思って、上手くいったり上手くいかなかったりっていうのが、すごい面白い。
「何のために生きてるのか」って考えて考えても理由が分からない。けど、大局的に大きい答えを出そうと思うと理由が分からないけど、局地的に小さい答えを出すことだけだったら、「こういうのを作るのが面白い」から生きてる、っていうのがたくさんたくさん重ねられていく。それこそが本当に生きることであり、生活なんじゃないかな。ってい風に考えて・・・こんな風になっちゃいました。
・・・うまくいかないこともたくさんあるけどね。

 

もちろんこれは服部さんが思う面白いであって、こだわり。

自然の中で自然のものを使って素晴らしいとか、そういう事ではなく、「あぁ、こういうのも丁寧に生きるってことかもしれないな。」と思いました。

でも、そうか。文明の利器に頼って思考停止はしてるかもな。

電気っていうのは、一番身近なのかもしれないですよね。

例えば、植物を育ててて上手く育たないときにどんな肥料がいいのかな。とか、洋服買ったはいいけど丈が合わなくて自分で自分の好きなサイズに合わせて切るとか。

そういうのもやっぱり考えるってことで、私の中では面白いと思う部分。作るとか育てるとかって、色々考えるから面白いのかも。

そこに「生きてる」って思わない日常も当たり前なんですが、意識したらやっぱ違うんだろうな。

小雪さん

井浦さん:ご家族のみなさんは?

服部さん:聞いてみますか。どうですか?

 

と、妻の小雪さんに問う服部さん。

小雪さん:常に争いが。肉のことも。野生肉だけで・・・

服部さん:買うんだよ 結構

小雪さん:私がお肉を買うと「なんで肉があるのに買うの?」って。すごく食べやすくて、飽きが来なくて、求めてしまうんですよね。野生肉をずっと食べてると。

服部さん:それ簡単だからでしょ?

小雪さん:そう。

井浦さん:でも、やっぱりあのぉ、小雪さんも、そこをもう、完全に、完全にもうわかってしまっている感じですよね。サバイバル生活、サバイバル登山が日常生活にもある。そういう中の生活だと・・・

小雪さん:私もさばいたりしているので、大分こう、理解は確かに進んだんですけど、やっぱ実際に獲ってきている人と、それを待って受け取るだけの人とはちょっと違うかな。
自分で撃って、しとめて持って帰ってきてますから、彼は。肉に対する愛情、愛情っていうかおかしいけど、思い入れが違うんだと思います。

井浦さん:何で、何で買うの?っていうのには、やっぱりその奥には、命への愛情というか、思いっていうのがあるんですね。

服部さん:「あいつらに悪いじゃん」ていうのはよくあるね。

小雪さん:そうですね。その辺の思うがやっぱり、私たちとは違うなっていうのは感じますね。

 

情熱大陸を見た時も、家族に対して衝撃を受けました。

そのときは服部さんのお子さんも出てたと記憶してるんですが、一言「強い」って思ったんです。

自然の中で生活してる人に対して「強い」って私は思ってしまいます。

山を一つ越えないと学校に行けなかった。けっこうな雨が降ると橋が川の中に入っちゃって学校行けなかった。っていう同僚がいて、一緒に働いてても違うんですよね。モノのとらえ方とか。

すごくシンプルなんですよね。考え方が。サバサバしてるっていうか。

で、家の周りに外灯もなかったから自分は都会が好きっていう友人もいる。

小雪さんの話を聞いてても、何だかそういった、聞いていると理解できそうだけど、実際体験しないと見えないこととか。色々と受け入れてる感とかがある。

去年発表した「息子と狩猟に」。

登山家であり、ノンフィクション作家でもある服部に「なんで服部さんが小説なのか?」という井浦の問いに対して

井浦さん:最初に、文祥さんが、小説なんだって思ったんですよ。
自分の、山での生き方、考え方、とらえ方。言ってみれば、心にある生まれた言葉、感じたことがそのまま言葉になって、書き続けてきた文祥さんが、想像の世界っていうものに、書きたいってなったことって、どんな所から来たんですか?

服部さん:う~ん。まず、根本的にフィクションとノンフィクションにそれほど大きな違いを感じてない。半分は、体験を書いてるんですよ。
山で書く山岳紀行みたいなものは、自分が体験したことの中から取捨選択して面白いことを、読んで面白いように並べていく。だからそういう意味ではちょっとフィクション的なところもある。まぁ、嘘は書いてないんだけど、取捨選択している点で脚色はしているわけだけど。
で、小説に関しては、実際には体験してないけど、脳みその中で勝手に起こっていることを書いているんで、あんまりその、違いはない。
そういう中で何を考えるのか。
山家とか猟師って、世界観がね、普通の社会でしか活動してない人たちとは少し違うんですよね。
簡単に言うとドライ。自分の存在とか命とかってことに関して考えざるを得ないんで。
みんなこういう視点を持たなくても良いけど、こういう視点があるんだっていうことが、作品を通して面白おかしく理解出来たらよりいいかな。っていう感じがしてる。

 

井浦さん:そこなんでしょうね?なんか、文祥さんの本でも、こうやってお話を伺ってて感じる所でもあるんですけど、命のとらえ方って、「人間」じゃなくて、「人間も。」結局、植物、獣たちと、もう同等に見ているから・・・。例えば山に熊に出会ったら、ある程度のことをやっととしても熊に食べられました。でもそれは、それでよし。じゃないですか。
と、同じように、人間同士で山の中で何か起きたときに、生きていくためには、生きていく手段として、そこで凍っている木々も、氷の中で固まっている獣も、目の前である人間の肉体も、みんな同等っていうことなんですか。

服部さん:そう。それがその基本で、その先で、その・・・、それでも食べたくないっていう人ももちろんいるわけだよね。その先で、そんなことを、タブーとされてるものを犯してまでも、人は、生きる必要があるのかどうか。自分は生きる必要があるのかどうか。っていうことに関しては、まぁ、個人個人の考え方によるのかなぁ。じゃあそうなると、同じ質問で最後に、「生きてるって何だろう」っていうのが自分に返ってくる。「命って何なんだろう」「存在って何なんなんだろう」「意識って何なんだろう」っていう、その堂々巡りをぐるぐる回してる。

 

私も今まさにぐるぐる考えが巡ってしまっている。でも、知っているのと知らないのでは全然違う。とも思う。

井浦さんのためにサバイバル料理を用意していたいう服部さん。その肉は一体何の肉なのか。

動物の肉を食べた井浦さんに「何の肉でしょうか?」と問う服部さん。

井浦さん:カエルですか?これは鶏肉のようだ。

服部さん:コレがあったらスーパーの肉を買う必要がないよね。これ弁当に入れりゃいいんだから。だからおれは肉買うなって。

井浦さん:え?これカエルじゃないんですか?

服部さん:これはですね、こういう下あごの「ヌートリア」(体長約40センチの大ネズミ)

井浦さん:あぁ~。ネズミ~。ネズミ初めて食べました。

 

まぁ、肉の種類は国民性の違いもありますよね。

「それでも食べたくないっていう人ももちろんいるわけだよね。その先で、そんなことを、タブーとされてるものを犯してまでも、人は、生きる必要があるのかどうか。」と言っているように、そう考えるかどうかは確かに個人差は大きいですよね。

なんだか色々考えさせられる内容でした。

机の前でゴチャゴチャ考えてる自分がいて、この番組を見てすぐに山に登りたくなりました。まだ行けてないけど。

帰り道にアウトドアショップに行って、雨が降っても大丈夫な靴は見た。

で、山や川や自然の中にいる自分を想像すると楽しいし、あのゾクゾクした感じを味わいたいって思ってしまいます。

もちろん私がそういったことが好きだからというのもあります。

やっぱりそれも「生きてる」って思えることなんじゃないかな。と。感じます。

そんな私は、家でアキレスけんを伸ばすストレッチをしただけで2日間筋肉痛である。まずは体力作りからだな。