齊藤先生というと私の中では、昔は「にほんごであそぼ」の先生。というイメージでした。
肩甲骨を動かすことを、マエケンよりも前に齊藤先生から教わった気がします。
が、今となっては「脱力タイムズ」で辛口コメントをしているイメージ。
齊藤先生はたくさん本を出していますが、もう、何年も前に読んだ「上機嫌の作法」が忘れられなくて、久しぶりに読み返してみました。
自分が自分をコントロールできなくなって、どうにもならなくなった時に読み直したい本です。
【上機嫌の作法】の流れ
上機嫌の作法は2005年に発行されたものです。
私が読んだのは10年ほど前ですが、随分納得してしまったのは会社に入って人間関係に悩んでいた時期だったかもしれません。
齊藤先生が言う「上機嫌」とは、ただ明るいだけとかジョーダンだけを言うとか、そういったものとは異なります。
円滑なコミュニケーションのための手段として、「上機嫌」な状態を自分の技にすることを提唱したいのです。
と、本の冒頭でもおっしゃっています。
本の内容の流れとしては、上機嫌であるべきこと、どういう風に上機嫌にするか、有名人の上機嫌、訓練する上機嫌、上機嫌の技化。などのようなものです。
初めて読んだ時には、読みながら「なるほど~」と思っていましたが、読み返してみると「そういえば忘れていたな」という事が大半。
そりゃそうだけど・・・。
だからこそ、何度も読み返したくなる本なんです。
「上機嫌の作法」冒頭
なんて無意味に機嫌の悪い人が多いのでしょう。
~省略~
くよくよして、むっとして、無気力でいて、何か新しいものが生まれるでしょうか?
私には、不機嫌さは「なんらかの能力が欠如しているのを覆い隠すため」だとしか考えられません。たとえば、無能さを突っ込まれないようにするため。あるいはお調子者だとかバカだと思われないようにするため。不機嫌であることが、あたかも威厳があり、知的であるかのように思うのは大きな勘違いです。
・・・はっ!Σ(´゚д゚`) 私のことではないか!!
そうか・・・。私は大きな勘違いをしていたんだな。と思ったのが10年前。
改めて読んで「そうだったそうだった」となる部分です。
本の中では、斉藤先生も元々上機嫌だったわけではなく不機嫌な人間だったと言っています。だからこそ「不機嫌は勘違いだ」と言い切れるのかもしれません。
人間は本来、すべからく自分の気持ちをコントロールできる状態にあるべきなのです。
とも書いてあります。
もうちろんそうなんですが、それができないから悩んでしまうんです。そこで技を身につけるという事か。と納得。
思春期の不機嫌
斉藤先生は「人間は思春期から不機嫌というのを覚えていく」と言っています。
それは反抗期であり、成長期だからです。
そのことについてこう書いてあります。
十代の精神的に葛藤の多い時期だからといって、人に対する気遣いをしなくていいよいうことではありません。この習慣を忘れてなくしてしまっていいと許容してしまいますと、身についた「当たり散らし癖」や「むっとしたまま癖」はその人の中で続いてしまい、当たり前にものとなってしまうのです。
ほっほ~。これはまた私のことではないか!!
20代になっても引きずってしまうのは「社会性の欠如」とも言っています。
確かに、不機嫌の時代が長年続いたらこじれるわ~。と実感しております。確かにここから立て直すの大変だわ~。とも実感しております。
ふっきること
自分の機嫌をよくしようとして努めても、なかなかそうならないことは当然あります。自分の中に悪いイメージがあって負の力が働くときは、どうやっても気分がすぐれない。どうやってそれを払拭していくかが鍵となります。執着、思い込み、欲望、嫉妬・・・何かにとらわれる気持ちをスパッと断つ。これが「ふっきり上手」となるということです。
私はこれ、やりました。10年前に試して、ふっきりすぎてしまった。かな。
吹っ切れても上機嫌になれるか。というとちょっと難しいのですが、一応本の中にやり方が書いてあります。
・断言力
・想像力
・自分を笑い飛ばす力
です。
私は妄想族なので、想像と妄想を勘違いしていたかもしれませんが、帰り道に大きな川沿いで「ここはフランスの川で、私は今パリにいる。」と妄想していました。
友人に話したら「頭は確かか?」と言われたこともありますが、それもふっきってやった!
上機嫌列伝
第2章では上機嫌な有名人の話があり、例に出されています。
・マツケンサンバ
・板谷バカ三代
・谷川俊太郎さん
・淀川長治さん
・黒柳徹子さん
・宇野千代さん
・新庄剛志さん
・小野伸二さん
・長嶋茂雄さん
本には載っていませんが、私の中で上機嫌といえばアニマル浜口さんだな。なんなら京子さんも上機嫌だ。
遺伝・・・。いや、育った環境だろう。
私は「上機嫌の作法」で板谷バカ三代を知りました。
むしろ、イライラしたり気持ちが沈んでしまった時には「板谷バカ三代」を読み返すことも多いです。
例で挙げられている中で淀川長治さんの紹介のところに、淀川さんの本の中から引用されている部分があります。
(独り暮らしがいいのは)第二に、バカなことができます。実は私、満月の夜はじっとそていられなくて、素っ裸になって庭や部屋の中を走り回る癖がありまして。なぜか。「満月ほど綺麗なものはない」と感動し、嬉しくてたまらなくなって、駆け出してしまうのです。
ぐっとくるとかではないんですが、想像したよね。淀川さんが素っ裸で庭を走っているところを想像したらたまらなくにやけてしまいました。
齊藤先生は「淀んでいる人には、子どもっぽさがない」「中年のおじさんが淀んでいるのは、子どもっぽさ、無邪気な躍動感、生き生き感を失ってしまっているから」と言っています。
私は余計なことをすること、あるいは無駄な動きというものを買います。無駄な動きには、基本的に生命力がある。理由があるからやっているという以上の何か、それが生命力な表れなのです。
淀川さんが素っ裸で庭や部屋を走り回っていることを、「無駄な動き」としてしまう事にも笑ってしまいました。
淀川長治さんが、真夜中に、素っ裸で、無駄に、走り回っている。
やばい、想像してしまう。笑ってしまう。
この後も3章4章と続きますが、気分をコントロールするための体の使い方や日本がかつて不機嫌だった時代について、上機嫌を技化するトレーニング法などが書かれています。
マラソンのようだと思いました。最初はあまりできなくても続けて慣れてくると疲れなくなってくるんだそう。
上機嫌というのとテンションが高いというのはちょっと違うと思いますが、確かに上機嫌を続けようと思うと疲れます。
疲れるからやめてしまう。やめてしまうから結局自分をコントロールできなくなってしまう。
この本の中に書かれていることを一つ一つやって行くと、本当にコミュニケーションは円滑になると思います。
別にコミュニケーション力を高めたいわけではないんだけどさ。自分自身をコントロールできなくなるのは嫌だな。と思うわけです。
あ、忘れてた!そうだったそうだった!!と大切な事を思い出すためにも手元の残しておきたい本です。