もう数年も前になりますが、古舘伊知郎さんが番組の最後に世の中の色々な事に対して個人の見解を語るようなバラエティー番組がありました。
はたしてバラエティーだったのかどうかも、どの番組かも覚えていないのですが、その中で、山本夏彦さんの「まこと世は〆切である」という事を題材に話をされていて、なぜか納得してしまい、本を読みたいな。と思っていました。
あれから数年・・・。
初めて読んだ山本夏彦さんの本は、難しい反面、語彙力を増やすのにも為になるのではないかと思いました。
山本夏彦『世は〆切』
この本は「文藝春秋」に連載していたコラムをまとめたもので、単行本は20年以上前のもので、書いているコラムも93年とあるので25年以上前のものです。
20年や30年前での言葉だけでは難しくないのですが、もっと前、昭和20年よりも昔、大正や明治の言葉についても書かれていて、一つの区切りは5ページほどなのですが、私にとって聞きなれない(読みなれない)言葉も多く、サクサク読めると言う様な本ではありませんでした。
ちなみに調べたら、20年前の流行語に「だっちゅ~の」があった。30年前は「5時から男」というのもあった。なつかしい。
そう、知っているから分かる。分かるからサクサク読める。というような本ばかり読んでしまいます。
山本夏彦さんは大正生まれで、昔の言葉がなくなっていくことについてしばしば書いてありました。
聞きなれない(読みなれない)だけで意味が分かるものもありますが、本当に聞いたことのない言葉もあり、文字を追っている目が止まってしまう。
そんな感覚が300ページ近くあるのか。と思うと、20代の頃だったら読むのを止めていたかもしれません。
あぁ、これが「語彙力が乏しい」という事なのかもしれない。と認識しました。
最近はやってますよね。「語彙力」。
昔の言葉で分からないな。と言う様な言葉も慣れてしまえばスムーズに読むこともできるし、身になって言葉にすることもできる。
むかし、初めて聞いた落語もそうでした。慣れてくると難しい落語を聞いていても分かるようになります。
こういった経験が語彙力を豊かにするのかもしない。そう思った本です。
『世は〆切』
これは、いくつものコラムがある中の一つです。
私がテレビ番組の中で聞いた「まこと世は〆切である」のコラムです。
「まこと世は〆切である」は、山本夏彦さんの名言としても有名みたいです。
毎月また毎週〆切が追いかけて来て、そのつど切りぬけているうちいつか十年二十年たったのである。「世は〆切だ」というよりほかにない。
コラムを書き始めたことのことからはじまり、ゼネコン、シェークスピア、キャンペーンなどについて書いたことが数行書いてあります。
最後に、
世は〆切というのは何も原稿に限ったことではない。浮世のことはすべてそうだと言うつもりで紙幅が尽きた。
とあります。
そして、読んでも古舘伊知郎さんが言ったことに納得したことは何だったのかが思い出せない・・・。
あとがきにも「〆切」について書いてありました。
私はこれまで〆切をかたく守ってきた。遅れると次の〆切が追いかけて来て、〆切が重くなって困るのは私自身だからである。それは原稿のことだけではない。
冷蔵庫のなかった昔は、魚屋は今朝仕入れた魚を売りつくして、夕方は店のたたきに音たてて水を流して、ごしごし洗って無事一日を終わった。
魚屋のあるじはあとは枕を高くして寝るばかりである。まことに一日の苦労は一日で足れりである、明日のことは思いわずらうなとは至言である。
私が何となく納得して数年放置していたことは、もしかしたら「〆切」だったのかもしれません。
だって、見た番組も思い出せないし、聞いた内容もなんだかあやふや。
その番組を見た後すぐにこの本を読んでいれば、もう少し感情移入もできただろうし、もっと他のことも思ったかもしれない。
期限が決められているのは他から言われてそうなっていることですが、自分の中でも決めないといけないのかもしれません。
「浮世のこと」とは幅の広い意味に感じますが、現代の私の生活に当てはめるとハッとすることも多々。
ダイエットがまさにそうで、ここ2~3年で5キロちかく太ってしまったから痩せないとな(入る服が減っているので)、と思いながら毎日を過ごしています。
そろそろ5キロから6キロになり、7キロ近くいった時はさすがに焦りました。
困るのは私自身だという言葉にも、色々な事に「〆切」を設けないとダメだな。と思いました。
山本夏彦さんは、自分への戒めとして「〆切」とした。とも書いてありました。
ムムム(; ・`д・´) まさにではないか!となりました。
仕事となるとそれなりに決められているので「やらないといけない」という気持ちもありますが、自分のことになると放置する癖があります。
癖?
・・・面倒くさいだけです。
それこそが自分が困ることにつながり、〆切を自ら設定しないといけないのかもなと思います。
語彙力のこと
「世は〆切」というコラムは、語彙力とはあまり関係なく、私自身が「あぁぁ」と思っただけのことなんですが、この本「世は〆切」は現代人の語彙力不足にはいいかもしれません。
いや、「世は〆切」だけでなく、山本夏彦さんの本はそうなのかもしれません。(まだ数冊パラッとめくっただけなので)
「世は〆切」では初っぱなから「大正デモクラシー」「ウーマンリブ」のことに触れています。
もちろん「大正デモクラシー」も「ウーマンリブ」も知らなくても語彙力とはあまり関係ないかもしれませんが、その言葉を調べると、色々言葉を知らないと理解が難しいのでは?とは思う。
「半七のことば」というコラムの中には、やはり昔使っていたが今ではあまり聞かなくなった言葉が書かれていました。
・ちか目(近眼)
・つけび(放火)
・絵そらごと(フィクション)
・手水場≪ちょうずば≫(便所)
私は言葉を武士の言葉と町人の言葉、男の言葉と女の言葉、山の手の言葉と下町の言葉に分けたことがある。この明治百年は山の手の言葉が下町の言葉を征伐した時代である。便所をはばかりと言うのはどちらかというと町人か女たちで、手水場は男女が共に言うことトイレに似ている。
そういえばトイレ、ことおトイレには抵抗があったが、それもつかのまで、今では平気になった。けれども「どこへ?」「おちょうず」というほうがきたならしくない。
なるほど。こんど誰かに使ってみようかとも思いました。
そして、このコラムの中には、山本夏彦さんは片カナ語を使わないと言います。それは語彙が滅びるからだとも。
ひとたびトイレを採用するとトイレだけになって、はばかり、せっちん、ちょうず場、ご不浄以下は全滅する。
ほう。
私は以前から、日本語は難しいと思っていました。
難しいというのは、海外の人に説明しようと思った時に難しさが分かりました。
英語では「I」なのに、日本語には「私」「俺」「僕」「拙者」「吾輩」・・・。
まぁ、おそらく使い分けとして英語でも「I」だけではないのでしょうが、日本語は一つのことを色々な言葉で表現しますよね。
どう違うのか、どうやって使い分けるのか、それを海外の人に説明しようと思うとこれがなかなか難しい。
そうか、昔ながらの山の手言葉や下町言葉の違いもあるのか。と納得し、やはり知るのと知らないのとでは語彙力は変わるな。と勉強になりました。
「語彙力」という点で言うと、英語の(何語でもいいのですが)映画の字幕などの分からない単語や熟語を調べると、反対に日本語の形容詞や言い回しが自分の中で増えます。
日本語ではなく、英語(何語でもいいのですが)の辞書は、かなり日本語が豊かになると感じます。
私は以前、ラテン語系の言葉をすこしかじっていましたが、【単語を調べる⇒出てくる日本語の意味が分からない⇒日本語を調べる】というよくわからないことをしていました。
外国語の辞書はおすすめ。
もしかしたら、祖父母と暮らしていたかどうかでも違うのかもしれない。とも思ったら、「核家族」というコラムに書いてありました。
核家族
これも二十数年も前のコラムです。
漢字のことを幼いころ本字と言ったことのない新卒の親が四十代になったのである。四十代と二十代では語彙が全く同じである。出れる来れる食べれると親子で言いあっている。
~省略~
それともう一つ、本当は四十五十の親は寝れる起きれると言って育ったはずがない。あれは若い者の口まねで、迎合である。昔は中学を出ても挨拶一つできないと言われた。与太郎は隠居に口うつしに口上を教えられた。今の親たちは教えるべきなにものも持たなくなった。女は針と糸を持たなくなった。キモノも着なくなった。あさぎ、とき色、さび朱、ひわ色、日本の色の床しい名はキモノとともに滅びた。
家に老人がいないとこうなる。いても一々直すと子はいやがる、ばかりか親もいやがるから言わなくなった。老人がいてもいないのと同様になった。五十年と言う歳月はこういう歳月なのである。
笑ってしまいました。
いてもいないのと一緒だったか。そうか。
現代人の語彙力が乏しくなったのは、今に始まったことではないのかもしれませんね。
もちろん昔の言葉が少なくなっているから語彙力が乏しいとも限りません。新しい言葉も出てきますし、それを取り入れるのは当たり前です。
私は昔、自分の気持ちを言葉でどう表して良いか難しく悩んでしまっていた時期がありました。
中学生くらいだったかな。
今思えば語彙力が足りなかったんだと思います。
そして、それはいまだに感じます。
いま感じているのは、「語彙力」とは、高めるのか、伸ばすのか、増やすのか、鍛えるのか、つけるのか、どれが正しいのか悩んでしまっています。
これも語彙力がないからなのか。
〆切を作って調べてみようと思います。
いや、今調べろ!( `ー´)ノ