心にぐっとくる本

山に登る前に読みたいワクワクする服部文祥【百年前の山を旅する】

少し前にSWITCHインタビューの【井浦新×服部文祥】の服部さんの話にゾクゾクして、さっそく本を読みました。

今回読んだのは「百年前の山を旅する」です。

登山をしない人にはもしかしたら退屈なものかもしれませんが、私はワクワクして山に登りたくなりました。

百年前の山を旅する

サバイバル登山を始めてから、昔の人たちに思いをはせるようになったという服部さん。

「百年前の山を旅する」は、そんな服部さんが、電気製品やテント、寝具、雨具、燃料までも持たずに、100年前の登山を再現したものを記録した一冊。

記録されているコースは以下。

・奥多摩・笹尾根縦走
・奥秩父・笛吹川東沢溯行
・北アルプス・奥穂高岳南稜登攀
・若狭~京都北山・小浜街道針畑超
・北アルプス・白馬岳主稜登攀
・北アルプス・小川温泉~鹿島槍ヶ岳
・北アルプス・鹿島槍ヶ岳北壁登攀~八峰キレっと縦走

 

読み始めて思ったのは、この本を読むにあたって面白さの一つは、その場所を知っているという事にもあるんじゃないかと思いました。

登ったことのある場所もありますが、登ったことのない場所もあり、登ったことのある場所の方がんでいても「あそこをこう行くんだな」など、頭でイメージしやすく読みやすかったです。

そして、そのイメージが膨らんでワクワクしてしまいました。

行ったことのない場所の話も、「今度行ってみよう」となるのですが、やはり、場所のイメージができるというのは、少なくとも共感できる面白さはあると思います。

100年前の装備で山に入る

これは、1909年、日本の山の地図がまだ詳しくできていない時代に、日本の登山界の先駆者、小暮理太郎と田部重治の二人が行った「奥多摩・笹尾根縦走」をたどった記録。

服装なども当時と同じようにし、食料までもこだわり再現してみよう。という登山。

わらじを履いて、きこりのような格好の服部文祥さんの写真も載っています。

ここでは服装や装備などにこだわっていますが、道具にこだわる(道具を持たないというこだわりではありますが)という服部文祥という人は、やはり職人気質なんだろうな。

さらにすごいのが、小暮理太郎と田部重治がたどった時間経過も同じように歩きたいと思っていること。それは、当時の人の技術や力量もシンクロさせたいからだったんだそう。

常識とは

寝袋も雨具も、燃料も電気も持たないで行っていた、現在の常識に当てはめると無謀な100年前の登山を、服部さんはこう言っています。

常識とは複数の試みから導き出された一般論を言う。しかし、時代は20世紀の初頭、まだ、日本アルプスの主要な山ですら、冬期登山がおこなわれていない時代である。山稜をたどってどこまでもいきたいという発想=縦走そのものが、当時は画期的な新しい試みだった。彼らの行手に先人はいなく、これから彼らが日本の登山を作り出そうとしていたのである。常識なんか通用するわけがない。

これは登山の話ですが、この部分を読んで私は、現代の様々な物に当てはまると考えました。

私は「常識とは何か?」というのをものすごく考えた10代20代でした。たまにいまだに考えます。

常識とは、社会の中で生きていける知識や配慮だとも思っていました。それは日本の社会の中で。

でも、変わったのは留学をして同じクラスに色々な国の人たちがいたから。日本の社会では当たり前のことが海外では当たり前じゃなかったし、その反対もありました。

授業中にポテトチップス食べてコーラを飲むメキシコ人。何も言わずにコーヒーを買いに行くアメリカ人。もちろん授業中のガムは当たり前。麺類をズルズルと音を立てて食べるとものすごい顔で席を離れていくイタリア人。

外国を見習えってわけじゃないですが、色々知っていると常識の幅が広がると思うんです。

(私が例に挙げたのは生活習慣の常識なんだと思いますが)これから先、何かをしたいと思った時、それは常識では考えられなくても小暮理太郎と田部重治のように、ただ行ってみたいとか、ただ面白いからとか、そういうのでいいと思う。やっぱり自分の道を閉ざしたくないな。と思った一文です。

ワクワクしてしまった

この本は、始めの課題が小暮理太郎と田部重治が行った「奥多摩・笹尾根縦走」の話なんですが、そこでワクワクしてしまったので最後まで読み進めたのもあります。

繰り返しになるが、彼らは地図を持っていなかった。自分たちが歩いている山稜が、三頭山につづいているという確信を持たずに旅をつづけていたのである。何とも優雅で自由ではないか。

とあります。

私は旅に出る前も山に登る前も、しっかり下調べをしていくので、この感覚にワクワク感が絶えませんでした。

自分がもし地図もなく地形を知らなかったら、もし、時間の感覚が時計ではなく空だったら。そんな想像をしました。

もちろん、本当にそんなことをしたら帰ってこれなくなるし、迷子になって助けを呼ぶことになるでしょうが、この冒険的なものにワクワクしてしまうのは性格なんだと思います。

目的

これは、2番目に行った「奥秩父・笛吹川東沢溯行」に記載されている一分です。

撮影するために一緒に行った西田君は服部さんのように当時の服装や装備ではなく、現代のテントやガスバーナーを用いています。

そんな西田君に言い、自分自身について思った場面。

「西田君は、最新装備と乾燥食料を購入することで、火を炊く経験と食事を作る経験、ふたつの重要な経験を捨て去っているね」と一席ぶってみた。登山の目的とは山で生活しながら山頂を踏み、下りてくることだ。便利な道具を使いすぎれば、登頂という目的は達せられても、他が空虚になりかねない。
「僕は撮影が目的ですから」と西田は私の難癖をスカし、ご飯が炊けるのを待つわれわれの横でズズズと麺をすすった。
なるほど、それではわれわれの目的は何なんだろう。田部と小暮の足跡を、装備を真似してたどることで、いったいなにをしろうとしているのか。

「自己満足」とこの本を言っている人もいるが、そもそもが記録しているもので、自己満足の世界なのだ。

まず、そのことを忘れてはいけない本。

私は登山もするけれど、山にの登るという目的は人それぞれ。自然に触れたいのか一人になりたいのか。

そこに文明的なものを持ち込むのか持ち込まないのかは、自己満でしかないんです。そもそも、山に登るという行為が自己満足なのかもしれないとも思います。

それでも体験したいという思いが、この本の面白さであると思います。

 

この他にも、江戸時代に京都にサバを運んだ道のりや、時代的に山に入った目的などが書かれていて勉強になりました。

最初はテクノロジーのなかった世代に対する単純な憧れだった。

と冒頭の方に書いてあります。

おそらく、この本を魅力的に感じたのは、私自身の中に少しのあこがれがあるからなのかもしれません。

おそらく、服部文祥さんのような考え方も生き方も、なかなかマネできないというのが現実ではないでしょうか。

いや、マネしたいかは個人差もあるだろうし、そうやって生きていきたいか。と言われたら悩んでしまうところですが。。。

そうやってみたい、何もないところに自分の力で行ってみたい。という人にとっては、疑似体験できる一冊なんじゃないかと思います。

100年前に行われていた山登りを実際に体験しようとした服部文祥さん。その体験をこの本を通じて疑似的に体験できる。

という、なんとも現代的な・・・。