心にぐっとくる本

ぐっとくる『養老孟司~まともな人~』

こころにぐっとくる本

今まで、小説や漫画メインで本を読んできて、そんな私には少し難しかった本なのですが、進められて読んでみたらぐっとくる。

と、言いますか、ハッとさせられる本でした。

養老孟司「まともな人」

この本は、中央公論に連載していた「鎌倉傘張り日記」を本にまとめやモノです。

政治、経済、学問、宗教など、色々な時評を書いています。

その中で、私自身が納得してしまって一節です。

一番初めに出てくる一節

生きることとは、再び取り返しがつかない時間を通過することである。
通過する主体は、二度と同一の状態をとることはない。
だからすべては一期一会なのである。

現代は情報化社会であり、おおかたの人々はそれでよしとしている。
それでも結構だが、その時に忘れてはならないことは、情報は固定しているが、人は生きて動き続けているということであろう。
情報が変化していくのではない。 我々が変化していくのである。それを諸行無常という。

「教養は座っていても身につかない。それは情報化社会だからであろう。」

と、いう話の流れからの一説なんですが、誰が自分の体を一期一会と思うのか?そしてそれを諸行無常という。

なんというか、そういう感覚を自分は持ち合わせていないので、”なるほど~~”とうなってしまいました。

自分への体の思いが変わるというか、

でも、それは本当で、普通に生活をしている中で、この体を使えるのは今しかないと思うようになりました。

そして、養老さんはこの後人間を

奇妙で猥雑なもの

と表現しています。

また、これもおもしろいです。

なんと、人間とは奇妙なものなのか!

オリジナリティというという話

脳のはたらき、すなわち人々がふつうには「心」と呼ぶもの、これは個人間の共通性がない限り、そもそも他人に理解できない。
ゆえにまったく個人的な心というものがあったとしても、それは社会的に意味を持たない。
ふつうそこに誤解がないか。
多くの人は自分独自のものと思うらしいのに、そのくせ同時に、他人の共感を求めるらしいからである。
心とは、つねに共感を要求する。
はっきり規定すれば、万人に共有のもの、それが心である。自分だけのものとは、心ではなく、じつは身体である。

中学、高校の頃は、”個性的”にあこがれてました。

ちょっと変わった人になりたい

多分、ちょっと変わった人とは、少数派の事だったのかも。

まさに、私の心は私のもので、分かってくれる人だけわかってくれればいい。

なんて思ってました。

そうか、共通を求めるのか。確かに。

共通を求めるのに、個性に憧れていた。矛盾。

この本に関しては「ほ~~(納得)」とか「は~~(関心)」とか。そうなるところが多すぎて書ききれません。

私を変えた。なんて言うと大袈裟ですけど、確実に私の固定観念を崩してくれた本です。